今年度霧島アートの森で行う個展に向けて、棒編みを習得することにした。
これまで、作品はかぎ針編みで作ってきたのだけれど、今回提供していただいた手編みのあみものは、多くが棒編みであって、セーターやマフラーは普通棒針で編むので当然そうなる。それらをほどいて自分があらたなかたちに編み直すときに、全部かぎ編みの手法のみ、というのも不自然な気がして、棒編みを取り入れることにした。
この年末年始に実家に帰省した際、針と糸を買いに行き、図書館で編み物の本を借りて母に教わりながら少しずつ編み始めた。棒編みは、一度作った目を裏、表と繰り返し編んで縦に伸びていく。どちらかというと織物に近い印象がする。
思い返せば中学生くらいのときに初めて編み物をしようとして編んだマフラーは棒針で編んだ。結局完成しないまま、おそらく今も実家の押し入れのどこかにある。手芸的な編み物はその未完成の一点のみで、長らく後になってから美術作品としてかぎ編みの手法を用いるようになった。
かぎ編みは、全方向自由に編み進めていけて、方向転換も容易でどこまでも編み続けられる。はじまりも終わりも自分次第で形の決まりも特になく、その自由さが性に合っている気がしていたけれど、
一段、また一段、と着実に編み進めていく棒編みの進行の仕方は、こちらもなかなかはまると手がとまらない。一方で一段編み終わったところで針が一本抜けるので、保留にしておくのも大変容易である。一段編むのはほんの数分なのだけれど、一段でも二段でも編むだけで、ちゃんと行為が積み重なっているのが目に見えて実感できる。傍らにいる子どもにせがまれて絵を描き、それに色が塗られている間に一段編む、そしてまた絵を描いて塗っている間に一段編む、なんてこともできる。手を止めて保留にしやすい、というのは家事に子育てに追われる女性たちにとって、大きなポイントなのだと思った。
鹿児島に帰ってからも、続きを日常の中で細切れに編み繋げている。
何かと何かの隙間のような時間にほんの二、三段編むだけで、充足感を感じている。何も成してないような日々の中、少しずつ編み目が増えていることに密かな悦びを感じている。
子どもに怒鳴ってしまったり、夫と険悪になってしまった夜、寝ている子どもの隣で灯をつけて編む。「あみもの座談会」に来てくれた女性が、鹿児島弁で夫に何かまくしたてられた後、一人で編み物をして心をなだめていた、と話してくれたことを思い出した。
一段、一段と編み進めるにつれ、気持ちが少しずつほどかれていくのを感じていた。