11/7、編み物を提供してくれた方とのあみもの座談会の2回目を行った。
東北から嫁いできた、という70代くらいの女性。
当初は鹿児島弁がわからずに、苦労したと。言葉がわからないし知り合いもほとんどいないので、空いてる時間は家で手を動かして編み物をしていたと言っていた。
ご主人から、鹿児島弁でわーっと何か言われたりしたときにも、編み物をして気持ちを落ち着かせたのだと。
故郷が遠いので同窓会にも行けなくて、同窓生一人一人に、今回貸与してくださったようなレース編みを送ったのだそうだ。「編み物は、私のメッセージ」とおっしゃっていた。
言葉にはならなかった彼女の言葉を思う。
最近では足を痛めて入院されていたときも、病室のベッドの上でこのレース編みを編んでいたのだそうだ。編み物だったら、膝の上でもできる、と。
少女時代は、和裁をされていたお母さんが毛糸の衣類を編んでくれて、小さくなったものはほどいて、編み直してくれていたそうだ。ほどいた糸は、くせがついているので、蒸し器で蒸して伸ばしていたと話してくれた。
編み物は、小学校4年のときに、手にしもやけのある同級生の女の子から教わったのだそうだ。
他の参加者も、明治生まれのお母さんが冬物のほとんどを編んで作ってくれるのを、見ながら教わったという方、
やはり明治生まれのおばあさんが編むのを傍らで見て覚えたという方、
高校に電車で通うときに1つ上の先輩がいつも編み物をしていて、通学中に習ったという方、
など、編むということは誰かの手から誰かの手へと、伝えられてきたのだった。
参加者の方が、元編み物の先生をされていた参加者の方に、編み方のわからなかった模様の編み方を、持参されたマイ編み針で教わるの図