数年前に結婚&出産があり、気がついたら夫の実家の隣に家まで建った。「〇〇ちゃんのお母さん」「〇〇(苗字)の嫁さん」と呼ばれる毎日は、結婚前の生活と時間が丸ごと全部自分のものだった日々とは大きく異なり、表面上は対応しているけれどどこか解消できずにいるものの存在が無視できずにいる。
そんな日々の中、以前のように土地に滞在制作へ出掛けて行って寝てる時間以外は全部制作みたいな丸ごと全部自分を捧げて作品を作るようなやり方はできなくなった。子どもにご飯を作らないといけないし夕方になれば迎えにも行かないといけない。子どもの世話をする保護者である自分を自分の中に残しておかないといけない。
そういう自分で何を作るか、というときに、今回コロナ禍であることも含め、身近な地域の人が手編みで編んだあみものをエピソードとともに集め、そのモノを媒介としてその向こうにいる人と関わりながら作品を作ることにした。
作家ではない、誰かが誰かのために編んだもののひとつひとつのエピソードを読んだり、何度か行った「あみもの座談会」で直接編み手の女性達のお話を伺って、みな、思い通りにならない日々の中、仕事をしながら、家事をしながら、子育てをしながら、看病をしながら、畑を作りながら、編み物を編んでいたということを知った。誰かのために、あるいは、日々の煩忙や目の前のことから逃れるために。その女性達の気持ちに今の私は共感ができる気がした。
あみものをほどくワークショップで、編み物提供者の方も何人か来てくださり、ご自分で編んだ編み物をほどいた方もいた。単に編み物が好きで、自身で編んだニット帽を被り何日も通ってほどいてくださった方もいた。黙々と、それぞれが集中して目の前のあみものをほどく様子を見ていて、なんというか今回の作品は私一人のインスピレーションで作るのではなく、これらの糸が渡ってきた編み手、もらい手、ほどき手の多くの人々とともに作るのだと思われ、それは勇気になっている。