2015/03/08

今回の作品は、久多島神社の言い伝えがもとになっている。

-その昔、天智天皇のお妃が、舟で開門へ渡る途中に産気づき、舟の上で女の子を死産した。
その遺体を「オツワ舟」に乗せて海へ流した。舟は今の吹上町永吉に辿り着き、そこで皇女は葬られ、
空になったオツワ舟を海に流したところ、沖で舟は沈み、そこから久多島が現れた。
皇女は島に祀られ、遥拝するために久多島神社が建てられた。-

この、「オツワ舟」というのが気になっていて、調べたのだけれど、よくわからず、
けれどとても気になっていた。
また、島を「遥拝」するという在り方も、気になっていた。
向こうとこちらを隔てる海、その海の向こうに見える島、届かないものに思いを馳せるということ

構想の段階で、昨年吹上で制作した船木神社の「ワタル」からの続きのような感じもして、
塩で舟を作ろうと思った。
手の平に乗るくらいの塩の舟が91隻、できた。
これを吹上砂丘荘の、松林が見える部屋に並べた。
窓の外の松林は、そのまま吹上浜へと続いている。
その松林へと向かうように、配置した。

展示にはこの久多島神社の言い伝えも書き添え、会期中に「オツワ舟」について
知っている人が現れるのを待っていた。

最終日、N夫妻が見に来てくださった。
Nさんは言った、古代の天皇の葬儀は、舟に遺体を乗せて流すものであり、万葉集にその様子を詠んでいる歌があると。
その歌は天皇の葬儀の様子をそのお妃が詠んだもので、天皇の遺体と乗せた舟と共に、おそらく供物などを乗せたたくさんの舟が、西方へ向かっていく様子が描かれているのだと。

そのお話を聞いて、あぁ、きっとこの久多島に祀られた皇女も、天皇の娘なので、本来ならばたくさんの舟で見送られるはずだった。けれどたった一人で、一隻の舟で流された。だから小さくともたくさんの舟を作ったのだと思った。

さらにNさんは言った、この和歌の「天皇」は、天智天皇ではなかっただろうか、と。
その場で調べてくださり、「やはり天智天皇でしたよ」とおっしゃった。
ということは、この和歌に出てくる天智天皇の葬儀を見送った妃は正室で、久多島から開門に渡っていた妃は側室だったのだろう。
以前この久多島の言い伝えのことをとある詳しい方に伺った際、おそらくこのお妃は、何かの理由で、都から開門に流されたのではないか、とおっしゃった。
自分の娘を、天皇の娘を、たった一隻の舟で見送らなければならなかった女性の気持ちとは。

塩の舟を作っている段階で、最後は海に流そうと思っていた。
途中でこの言い伝えに出てくる舟は、「もう戻らない舟」だとおしえてもらった。
だから塩だったのかもしれない。

展示終了後、久多島神社裏の吹上浜から、沖に見える久多島へ向かって、塩の舟91隻すべて海に流した。
地理的に、吹上浜は東シナ海に面しているので、沖の久多島は西方にあたる。

風のとても強い日 空は曇っていた 東シナ海は決して穏やかな海ではない

一隻ずつ、手に持って、海へ送った。
そうすることができてよかったと思う。